3. 大学生はなぜ、授業をサボるのか


(1)授業が楽しくないという学生たち
 筆者は、かつて100人ほどの学生たちに「授業をサボるのはどんな時か」と尋ねたことがある。ほとんどの学生が、「授業が楽しくない時」と答えた。それでは、「楽しくない授業とはどんな授業か」と尋ねると、「私語が多いのに何の注意もしない先生の授業」「いつも遅れて来て、早く切り上げる先生の授業」「声が後ろまで届かない先生の授業」「黒板に小さな字ばかり書く先生の授業」「教科書の棒読みが多い先生の授業」「ノートばかりとらせる先生の授業」「冗談を言わないクソまじめな先生の授業」「人間的魅力がない、厳しいだけの先生の授業」「学ぶことに感動を覚えさせてくれない先生の授業」等々の回答があった。
 もちろん、教師の側には何の責任もなく、ただ単に「サボりたいからサボる」と答える学生も少なくなかった。それでは、「どんな時にそう感じるか」と尋ねると、「彼女(彼氏) とデートしたい時」「友達とおしゃべりしたい時」「ドライブに行きたくなった時」「何か食べたく(飲みたく)なった時」「パチンコ屋(マージャン屋・ゲームセンター・スポーツセンターなど) に行きたくなった時」「何となくムシヤクシヤする時」等々、まことに身勝手な理由ばかりが目立った。中には、「クラブ活動に忙しいから」と答えた学生も少なからずいた。クラブ活動と授業とを両立させている学生も多いが、前者にほとんど全ての時間とエネルギーを割いている学生も、また、じつに多い。
 ちなみに、1994年7月、筆者の勤務する明海大学では、学生新聞委員会が発行する『ヴォイスM』誌が、1年生70名を無作為に選び出し、「明海大学の授業は楽しいですか」という質問を発している。それによれば、「はい」と回答したのは28.5%で、「いいえ」と回答したのは40%であった(残りは「分かりません」)。「いいえ」と回答した学生にその理由を書いてもらうと、「授業中騒がしい」「科目数が少ない」「字が小さくて読めない」「授業が単調」「カリキュラムが悪い」といった回答が得られた。
 同会が発した「何をするために明海大学に来ているのですか」という質問に対しては、「友人を得るため」(3.8%)、「スポーツをするため」(7.3%)、「恋愛を求めて」(6.5%)、「就職の手段として」(61.6%)、「肩書きとして」(20.8%)と回答している。このアンケートによれば、大学(少なくとも明海大学)を「学問の場」と捉えている学生は40%で、「そうとは思わない」と回答した者が34.2%、「分からない」と回答した者が25.8%おり、8割以上の学生たちが、大学を「就職の手段として」「肩書きを得るため」と捉えていた。わずか70名の回答だとはいえ、現代社会に生きる若者の大学像としてはこれは1つの真実を語っていると思う。
 冒頭に紹介した、筆者が個人的に行なった調査と、明海大学学生新聞会が発表した学生たちの意見とを分析してみると、教師の側に授業を行なうに当たっての工夫が足りないことも分かる。もちろん、魅力ある授業を創造し続けることの困難さはよく理解できる。たとえば、東洋経済新聞社は河合塾と共同で『日本の大学』と題した、分厚いデータブックを1993年春以来、毎年刊行しており、現在までに三点が刊行されているが、東京六大学を例に取ってみても、「(学生による)推薦教授」として3回連続で名を記載されている教授はごく少ない(1回のみ、または2回連続という教授は相当に多い)。
 ちなみに、東京大学法学部 K氏(国際政治)は、「外交の裏話が面白い」「謙虚。最前線の動向が分かる」「第一人者。熱心さが伝わる授業」という学生たちによる各年度の推薦のコメントがある。また、同大工学部のS氏(制御論演習)の場合は、毎年連続して「実生活と結びつけて講義」という推薦の辞がある。慶應義塾大学法学部の K氏(政治過程論)の場合は、「計量的に政治を読み解く」「テレビにもよく出る」「考え方がうまく迫力がある」というコメントになっており、同大学医学部の K氏(生理学)の場合は、「視覚についての最先端研究」「世界的にも有名な研究者」「研究・教育面で超一流」という、羨望の思いを禁じ得ない評を得ている。
 また、早稲田大学の場合、第一文学部のT氏(ロシア文学史)が「啓蒙的で面白い」という評を2回、「映像を利用し面白い授業」という評を1回得ており、人間科学部のS氏(認知発達論)が毎年連続して、「高度な内容だが面白い」という推薦の弁を得ている。法政大学、立教大学、明治大学の場合、三年連続を保持している教授は見当たらない(2回連続という教授は結構多い)。ちなみに、かく言う筆者は、まことに幸いなことに、明海大学外国語学部における唯一の3年連続教授として学生たちの推薦を得ている。学生たちの推薦の弁は、「熱心な指導」「辞書の編集主幹。熱く語る」「人生についても学べる」となっている。自讃の謗(そし)りを免れないであろうが、本書にこのような原稿を寄せる以上、当人が勤務校においてどのような学生評価を受けているかを公表する義務があると思うので、あえて言及することにした。

(2)べつに大学に勉強に来ているわけではない学生たち
 筆者が勤務する明海大学にのみ限って言えば、前記雑誌の記述にもあったとおり、多くの学生たちは大学を学問の場とは捉えていない。同校の教師たちは、この現実を認識しておかないと、挫折感や倦怠感を強める結果となる恐れがある(ただし、このような感情を抱くのは、立派な授業を行なう誠実な教師たちであるが)。同誌が1994年4月に行なったアンケート調査の場合、「あなたは授業を楽しく受講していますか」という質問には、「している」(22%)、「していない」(34%)、「どちらでもない」(44%)と回答しているが、これによっても、「授業を楽しく受講している」学生数はわずか22%に過ぎないことが分かる。ただし、「楽しくない理由は何ですか」という問いには、3分の2の学生たちは、「授業内容が面白くない」「担当教師の教え方が悪い」と、教える側に責任があることを明言している
 「べつに大学に勉強に来ているわけではない」という事実を裏づけるもう1つの根拠は、授業中の学生たちの私語の多さからも伺える。もちろん、私語が多い理由の一つを、教師の指導法の悪さに帰することもできるし、それが真実であることもしばしばである。しかし、また、多数の学生たちが、ただ私語を楽しむためにだけ教室に入って来ることも否定できない。長年大学の教壇に立っていると、そうした学生の数が年毎に増加して行くことを実感する。最近の若者たちは、幼い頃から、自宅ではテレビをつけっぱなしという生活をして来ている。食事の時しかり、家族団欒の時しかり、試験勉強の時しかりである。自分が家族の者と話をしている最中でもテレビの音声は流れっぱなしである。テレビから流れて来る音声の中で別のことをしているということに何ら疑問も違和感も罪悪感も抱かない。周囲の音をBGMの一種程度にしか捉えていないからである。このテレビの音声を教室における教師の声と考えればどうなるであろうか。自分たちが「おしゃべり」(私語)を楽しんでいるそばで、先生の声がBGM代わりに聞こえて来る。ただし、このBGMは、テレビの場合と違って、「自分の意志で黙らせる」ことができない。かくして、そのBGMの存在など気にも留めずに、相変わらず「おしゃべり」(私語)を楽しむこととあいなる。教師の声をBGM代わりと捉える学生が多ければ多いほど、良心的な、あるいは気の弱い教師は自己嫌悪に陥るであろう。
 それに現代の若者たちは、テレビ映像に慣れ親しんでいるせいであろうが、活字を追って読むことは、漫画や週刊誌などのそれを別にすれば、相当に過酷な作業と感じているふしがある。したがって、大学用の分厚い参考書や教科書を丹念に読み進むのも、かなりの苦痛に思、えるようである。
 多くの高交生の場合、大学入学が最終日的になっている感のある日本的現状にあっては、ひとたびその目的を達してしまえば、ごく一部の頂点校の学生たちを除いて、好んでその過酷な作業や苦痛を体験しょうという者はほとんどいなくなる。
 全ての学生たちを魅了する、優れた授業を行なうことなど、常人には不可能であろう。しかし、このようなキャンパス状況を作り出す日本社会の病根を断たなければ、教師・学生双方の、滑稽を通り越して悲惨とも思えるほどの現状はいっこうに改善されないであろう。プロ教師たる者、何としても、一人でも多くの学生たちに学ぶことの楽しさを経験させてやりたいものである。あるいは、自分の授業に工夫を加えて、私語よりも教師の話に集中するほうが楽しいと思わせてやりたいとも思う。学生たちに、自分の意思で学ぶことの意義と必要性とをきちんと納得させ教えてやれる、そういう教師が、今日、あまりにも少ないように筆者には思えてならない

(3)サボられない授業を創造するために
 現在の大学生は、その多くが偏差値重視教育の犠牲者である。小学校入学時から高校卒業時までを、詰め込み主義による授業と試験とに追われて、創造性や自主性を培うような授業時間は極端に少なくなる。頂点校に入学できる子供は優れた子供で、その他は落ちこぼれだと、子供たち自身がそう信じている。わずか1〜2点の差が自分の将来さえ決めてしまうという脅迫観念に、親も教師も子供も苦しんでいる現状を目のあたりにするにつけ、この国の教育は病んでいると結論せざるを得ない大学生になった途端、学生たちの多くは授業をサボることに罪悪感を抱かなくなる。
 そこで筆者は、サボられないための工夫の一つとして、100名以上のクラスの場合、学生たちに、中学校・高校時代に英語の単語を暗記する時に使用したような、100枚綴りの小形カードを持ってこさせることにした。学生たちは前もって、それら全てに自分の氏名・学生番号を記入しておく。学籍番号のそばに自分のハンコを押しておいてもよい。次に、筆者が教科書に沿って各種の質問をし、正答の場合にはその正答を出した学生のカードを受け取る。当然、質問の難易度に応じて、受け取るカードの枚数は加減される。机間歩行をしながらの授業であり、学生たちのカードが筆者の手元に多く渡れば渡るほど、学生たちの平常点は高くなり、結果的に年度末成績に影響するわけであるから、手元に100校のカードがそっくりそのまま残るということは悲惨極まりないという結果となる。したがって、学生たちは私語をしている暇がない。平素の授業参加がそのまま年度末成績に影響するわけであるから、学生たちはサボりようがない。かくして、昼間部・夜間部を問わず、学生たちの出席率は大いに高い状態を保てるのである。出席調査が厳しいから、仕方なく授業に出るということもない(ここで紹介したカード利用の授業方式は、同僚で教育心理学等担当の正保春彦氏が改良され、専門学会で発表された。また、カード自体は「発言券」と命名され、着実な成果を挙げている。→こちらを参照)。
 筆者の授業に、学生たちが、自分の意思で積極的に参加している事実は、次に紹介する授業(対照言語学)感想文からもよく判断されよう。書き手は夜間部4年生(英米語学科)で、学年末試験の折りに、解答用紙の裏面に記してくれたものである。    

毎回、「あ−、なるほど」と思う話ばかりで、とてもためになる、また楽しい授業だと思います。昨年の文法論と今年のこの授業で、2年間山岸先生のお話を聞いていますが、もっともっといろんなお話が聞きたいと思っています。(女子学生)  
いきなりほめますけど、これはヨイショではありません。「先生の授業は素晴らしい!!」 私は明海大学に入ったことで先生の授業を聞くことが出来たのでとてもよかったと思う。授業に緊張感がある。これは他の授業ではないと思う。(男子学生)
この講義の名前は「対照言語学」であるが、「対照言語学」以外にも多くの事を学ばせていただいたと思う。私は授けられているのではないのだ。先生と一緒に「対照言語学」という講義を創っているのだと考、えると、とても金曜日の6限が楽しくなった。そして、90分間熱く熱く講義をするパワーは一体どこから来るのか不思議でならなかった。とにかく、この講義に出会えてよかった。4月から社会人になるが、この講義で学んだ事を生かしていきたい。」(男子学生)
対照言語学の分野のことは当然のことですが、先生が持っている哲学者の面が好きです。具体的にどの点が、と言われても難しいのですが、話を開いていて楽しい授業です。内緒にしていたのですが、私の後輩で、経済学部の一年生を説得して授業に呼んだら、「こういう面白い授業が経済学部にはないなあ」と言っていました。その彼はテストこそ受けませんでしたが、ほぼ毎週(5月以降)授業に出ています。これからも聞いて楽しい授業をしてください。(男子学生)   
この授業では、本当こ多くのことを学ばせていただいた。たぶん、4年間のうちで頭に残った授業は山岸先生の授業だけだったと思う。そして、「タメ」になった授業も山岸先生の授業だけだった。それは私だけでなく、皆もそう思っていると思いますその証拠に、これほどいつも出席率が高く、それでいて静かに聞いている授業を、私は他に知りません。対照言語学はもちろん、すごくタメになりましたが、それ以外の社会的勉強みたいなものが、今後の私の人生を大きく変えると思います。私は、山岸先生と会えたので、明海大学に来てよかったと唯一思っています。私はよく外国に行きますが、ここで学んだことを頭に入れて、英会話をしたいと思います。(女子学生)

  ほとんどの受講生は、学年未の「授業評価」に、以上のような書き方で筆者の授業を評価してくれた。夜間部の学生の中には、昔ほどではないが、勤労学生も多く、それだけに彼らにとっての時間は貴重で、教師もそれだけに真剣さを要求される。「サボられない授業」「楽しく、真に役立つ授業」を創造することは、けっして容易なことではない。しかし、プロとしての当然の努力を欠いた教師たちの多い現実が長年月放置されて来たからこそ、今日のような「サボる学生の多いキャンパス」が日本国中にあちこち出現するようになったことも、また、否定できない事実である。「サボられない授業」「楽しい授業」を創造するための秘訣などというものはない。教壇に立つ者が試行錯誤を繰り返しながらでも、各人で工夫して生み出す以外に便法はない。それをしない教師の教室は、いつまで経っても、サボる学生の多い教室であり続けるであろう。
 最後に付言しておきたいが、学生たちが授業をサボるいま1つの理由としては、彼ら自身はあるいは気づいていないかも知れないが、そのほとんどが、親に学費を支払ってもらっているという事実を挙げることも可能であろう。つまり、親子両者に見られる「日本人的甘え」が、直接的・間接的に、学生たちをして授業をサボらせる結果となっているものと思う。自分自身が稼ぎ出した金を学費として納めた学生にとっては、どの授業ももったいなくてサボれるわけがないであろう。少なくとも、サボることに、後ろめたさや罪悪感を抱くのではなかろかと思う。ちなみに、明海大学学生新聞委員会発行の『ヴォイスM』誌(1994年12月特集「1コママの価値は?−授業の値段ほか)には、卒業間近の4年生で、新聞配達によって学費を捻出し続けた一男子学生が登場しているが、彼は学生記者に向かってこう言っている。
 
    僕はあまり学費について、細かく考えたことはない。でも、やっぱりサボったりす
    ると、もったいないなとは思う。自分が学費を払っているから。

 さもありなんと思う。

【本稿は杉山徹宗・山岸勝榮編『未来をめざす大学改革―大学を救うために』(鷹書房、1996年)の第1章第8項用素稿として書いたものである。同書には優れた具体的大学改革案が多く収録されているのでご一読いただきたい。】

付記: 最近(2002年2月現在)は、学生の「私語」がめっきり減った。しかし、それは学生が授業に身を入れるようになったからというよりも、“携帯電話”での“メールのやり取り”のために静かになったというのが真相であろう。学生たちを観察していると、待ち合わせや打ち合わせのために、授業中も机上に置いた携帯電話の画面に見入っている。そのため、教師の話など“上の空”であることも多い。“私語対策”とは別の対策が必要となって来た。「静かなのだから良いではないか」という意見を述べる教師もいるようであるが、やはり教室は真剣な勉学の場でありたいものである。