2. なぜ文章が書けない大学生が多いのか

「最近の大学生は文章ひとつ書けない」とは、我々大学教師の間でしばしば聞かれるグチである。しかし、そのようなグチをこぼす多くの教師たちも、大学生時代には、さほど立派な文章を書いてはいなかったのではなかろうか。
  筆者など、達意の文章を今もって書けないでいる。ほとんど常に苦しみながら、何とか文章を稔り出しているといったほうが正確である。それに、「この頃の大学生は」「いまどきの若者は」などという言い方は、いつの時代にも聞かれる高齢者による若年者批判である。
  と、現代の大学生の味方をすることもできるが、それでは本稿担当者としての筆者の役目が果たせない。それに、標題の批判も確かに的を射ていると思えるので、その理由を、筆者の自省を含め、いくつかの視点から考察してみようと思う。


(1)文章を書く訓練を受けていない
 文章を書くには、書くための「動機」が必要である。大学生の場合、書く動機としては、試験答案、期末レポート、卒業論文等々を用意したり、提出したりしなければならないことが挙げられる。しかし、そのような動機に恵まれても、それで立派な文章が次々と生み出されるというものではない。しっかりとした構成あるいは構想の文章を書くためには、その前にかなりの「修業」が必要である。そのあたりのことを清水幾太郎氏が『私の文章作法』(潮新書、1971)で次のように書いておられる。傍線は筆者が施したものである。
 

本当に立沢な文章が書けるようになるのには、作家でもよい、学者でもよい、
自分の好きな文体の所有者の文章を徹底的に真似ることです。実際に、その
人の文章と瓜二つのような文章を何篇も書いてみることです。これが文章修
業の本道で、それ以外に道はありません。(中略)しかし、修業というものは、
特に初歩の段階においては、みな誰かの真似をすることなのです。私たちが
日本語を読んだり書いたり話したりするのも、また、数学が少し出来るのも、
幼い時代に周囲の大人や先生の真似をした結果にほかなりません。真似が
いけないのなら、すべての修業、すべての教育は諦めるよりほかはないでし
ょう。御承知のように、現在、日本の学校教育では、文章を書く方法は殆ど全
く教えられていま
せん。こんな情けない学校教育があるでしょうか。稀に作文
を指導する奇特な先生がいても、生徒に向って、思った通りに書きなさい、と
言うばかりです
。そもそも、思った通りに書くというのは、どういうことなのか。
それは、勝手にしろ、ということ
を少し言い換えたものです。本当に、思った
通りに書けるものなら、誰も文章で苦労などする筈はないのです。ピアノを弾
きたいという少女に向って、思った通りに弾きなさい、と教える音楽家がいる
でしょうか。彼女は、いかに非個性的でも、いかに卑屈でも、バイエルから始
めなければならないのです。(12−14頁)


 氏の言われるとおりであると思う。筆者自身の過去を振り返ってみても分かるが、まともな文章修業に導入されたこともなければ、文章作法を教えられた記憶もない。小学校・中学校・高等学校を通じて、「作文」らしきものは何度も書いたが、語句・文章選択や全体構成などに関して教師から適切な指導を受けたことは、記憶の許す限り一度もない。大学時代、英作文の授業ではしばしば添削を受けた記憶はあるが、日本語で書いて提出したレポートを添削してくれた教師は皆無であった。それ以来、今日に至るまで、常に、その都度その都度、何とか下手な文章を捻り出す努力をしてきている。
 我が国の戦後の「文章教育」には、悲惨なものがあったと言って差し支えないであろう。それまでは、「英語の勉強などまかりならぬ」と言っておきながら、戦後は、猫も杓子も英語、英語である。英語学習に費やす日本人のエネルギーや時間を10とすれば、母語である日本語をより有効的に表現するための学習に費やすエネルギーや時間は、おそらく 2 か 3 ぐらいではないかと思う。最近では、英語教育を小学校から施そうという動きが盛んになりつつある。日本人だから、日本語は放っておいても自由に話し、書けるようになるという思い込みが日本人の心のどこかに潜んでいるように思えてならない。
 しかし、それは完全な誤解である。言葉は磨きをかけなければ錆び付いてしまうか、退化してしまうものである。清水氏は、同書の「あとがき」で次のように書いておられる

私自身、何十年間も文章を書いて生活して来た一人前のプロである筈なのに、それ
でも、毎日のように、文章の書き方で困ったり苦しんだりしている。私が不器用だと
いうこともあるには違いないが、それと同時に、元来、文章というのが、そういう厄介
なもの、油断のならぬものなのであろう。


 氏ほどの方でも、文章を書く上で多くの苦労を味わっておられるのである。「修業」にも「作法」にもほとんど無縁の現代の若者たちに、達意の文章を期待するのはあまりにも酷というものであろう。それに、現代の大学生たちは、文字社会ではなく映像社会に育っているのであり、他人に対して言葉、特に書き言葉で自分の意思を伝えることを不得意としているのであるもし、我々が本当に達意の文章を書きたいと願うのなら、我々は小学校の時期から、適切な文章作法を教わる必要がある。
 と同時に、家庭においては、親たちはできるだけ早い時期から、自分の子供たちに、きちんとした日本語で自分の意思を伝えられるように教育すべきである。朝起きてから夜寝るまで、親にまともに口もきかないというような「言語不在」あるいは「言語不感症」の環境にいる若者たちに、立派な文章を期待するのもまた酷なことであろう。
 すでに了解できたごとく、文章によって自分の意思を他人に伝えるということは、そう安易にできることではないのである。

(2)日本には、文章(言葉)によって自己主張することをよしとしない風潮がある
 文章を書く動機があったとしても、きちんとした文章を書くには、それなりの修業が必要であることは、すでに理解できたであろうが、その修業をより有効的なものにするには、書きたいという欲求、換言すれば、「自己を主張したい」という思いがなければならない
ところが、我が国には、古くから自己主張をよしとしない風潮がある。
 具体的に言えば、儒教の影響が強かった江戸時代から現代に至るまで、日本人は、「自己主張の強い人は、精神的未熟者である」とみなす傾向を有してきた。「沈黙は金」や「もの言えば、くちびる寒し、秋の風」の言葉が示すとおり、多弁をよしとしない風潮がある。周知のごとく、『論語』にも「巧言令色、鮮矣仁」とある。もちろん、この言葉の意味は、巧言も令色も、それ自体は非難すべきものではないが、人間、口にきれいごとを並べ、容貌や態度をもの柔らかく美しく見せることが主になると、人間の根本の道である《仁の心》が希薄になりがちである、ということであろう。
 しかし、「巧言令色」と言えば、普通は、「相手に取り入るために、巧言を用い、柔らかい顔付きをすること」の意味に解釈されてきたのではないかと思う。
 また、日本人は、孔子の言われた「言を察して色を観る」(相手の言葉の意味を洞察すると共に、顔色を通してその心を知ることが達人である)という言葉にも影響されてきたように思う。『論衡』にも「色を観て以て心を窺(うかが)う」(相手の顔色を観て、その心中を窺い知る)というような、相手の顔色を観てその心を知ることをよしとする教えがある。孔子はさらに、「述而不作」(述ベて作らず−むやみに自説を立ててはいけない)とか「信而好古」(信じて古を好む―先賢に学べ)とかのようにも言っておられる。
 これらの言葉が示すとおり、日本人が長い間教えられてきたことといえば、それは、個性を前面に押し出して新奇な言動をすることは邪道であり、聖人の言葉に学び、聖人を目標とすることこそが大事であるということであった。すなわち、我々の目標は《創造性》を養うことにあったのではなく、孔子のごとき聖人に学んで博学になること、換言すれば、《模倣性》を大事にすることにあったのである。
 日本人が「自己主張」や、それをする人をあまり好まないのは、この点と密接な関係がある。我が国に、こうした、「自己主張をして、自分を前面に押し出すことをよしとしない風潮」が支配的であった事実を認識すれば、学校教育においても、家庭教育においても、文章修業あるいは文章作法がさほど奨励されなかった理由も理解できる。
 もっと端的に言うならば、我が国では「言葉によるコミュニケーション」はさほど必要とされなかった。それは、「士・農・工・商」という身分制度の中にあっては、「士」と「農」とが、あるいは「士」と「工」とが、お互いに意思疎通を計る必要など、ほとんど皆無であったのである。各人はそれぞれ、自分が生まれついた「分(ぶん)」を守って生活していればそれでよしとされた時代に、言葉をとおして、自分を相手に分からせるということが奨励されることなどあり得ない。「以心伝心」という言葉さえある。言葉を介さずに、相手に自分の心を伝えるということであるが、この考え方をよしとする風潮は現代の日本にもあると言って差し支えなかろう。
  ちなみに、「自己主張」に相当する英語はself-assertionであるが、この語は日本語の「自己主張」が内包しているマイナスイメージは希薄であり、むしろプラスイメージが濃い。たとえば、アメリカのような多民族国家では、自分の考えや立場を明確に相手に理解してもらう必要があるから、「自己主張」(self-assertion )はきわめて大事なことになる。自己主張のできない、あるいは苦手な生徒や学生のために、assertion [assertiveness]-training courseの(自己主張訓練コース)を設置している学校さえある。つまりself-assertionは大いに奨励されるべきことなのである。したがって、英和辞典の多くがこの英語に対して与えている「自己主張、出しゃばり」のような訳語のうち、後者の「出しゃばり」は誤解を招くものである。形容詞の self-assertive に対する「自己主張の強い、我が強い、出しゃばりの」 のような訳語の場合も同様である。
 したがって、self-assertion と self-assertive の正しい理解の仕方は、それぞれ、「自分の考えや立場をきちんと主張すること、自己主張―[軽蔑して]我を張ること」、「自分の考えや立場をきちんと主張する、自己主張の―[軽蔑して]我を張る」のような、プラスイメージを前面に押し出したものである必要がある。

(3) 大学生に文章を書かせるには
 以上のことをまとめて言えばこういうことになる。大学生たちに達意の文章を書かせるには、書きたいという「欲求」と、書かなければならないという「必然性」あるいは「動機」をできるだけ頻繁に実感させなければならない。そのためには、彼らはできるだけ早い時期から、書くための「修業」、やさしく言えば「練習」を奨励されている必要がある。「自己主張」は罪悪ではなく当然のことであると認識させられている必要がある。このような点が生かされていない社会で育った大学生たちに、いきなり、「思うとおりに書けばよい」と言っても、それは言うほうに無理がある。
 人間は言葉によって考え、言葉によって感化され、言葉によって行動する動物である。したがって、幼い時から、本を多く読み、さまざまなことを考え、自分の思いを文章にして多く書くことをしてきていなければ、その思考も表現力も貧弱なままであるのは当然である。我が国における小学校以降の学校教育には、暗記・詰め込みを当然のこととする傾向が色濃く存在する。最重要の国語の時間でさえ、漢字練習量に比べれば、文章練習量はきわめて少ないのが現状である。そうした状況の中から、豊かな表現力に恵まれた子供たちが大勢出てくるとは考えにくい。
 繰り返しになるが、結局のところ、文章を書くためには、我々は小学校の時期から、適切な文章作法を教わる必要がある。家庭においても、親たちはできるだけ早い時期から、適切な言葉を使って自分の子供たちに語りかけ、適切な言葉によって意思疎通を計るよう奨励してやる必要がある。話の流れの中で一つの中心となる考え方あるいは思想を「主題」(theme)と言うが、教師も親も、子供たちにその主題をはっきりさせる訓練を施す必要がある。
 つまり、「何が言いたいのか」を明瞭にさせる「柱を立てる」と換言してもよい。その訓練をしていれば、話の中身、すなわち「話題」(topic)はおのずと見つけやすくなる。主題に合わせて、自分が読んだり、見たり、聞いたりしたことを選び出せばよい。書く目的(試験の答案か、期末レポートか、卒業論文か)に応じて話題を限定していき、全体の構成・構想を練る。それには物事が起きた順序や論理的順序を念頭に置きながら話題を整然と並べていく。そのあとで、話の主題と話題はバラバラになっていないか、論理的展開になっているかなど、全体のまとまり具合をも、「二度考えれば、最低限度に筋の通った文章が書けるであろう。文章を書く練習や文章で自己表現をする行為を突励する風潮が一般化していない社会、換言すれば「言語不在の社会」に生まれ育った若者たち、すなわち「言語不感症」に罹ってしまっている多くの大学生にとって、文章を書くことは大きな苦痛であろう。文章教育は国家的観点から考える重要な問題なのである。

【本稿は杉山徹宗・山岸勝榮編『未来をめざす大学改革―大学を救うために』(鷹書房、1996年)の第1章第1項用素稿として書いたものである。同書には優れた具体的大学改革案が多く収録されているのでご一読いただきたい。】