9.英語科教員の辞書選択



 我が国の英語科教員のほとんどは、私を含め、適切な「辞書指導」を受けて来ていないと思います。それが、自らの生徒・学生たちへの適切な辞書指導に繋がらない一大理由だと思います。「辞書の引き方など、放っておいても、自然に覚えていくものだ」といった乱暴な発言さえ聞かれるのは、そうした背景があってのことでしょう。大学受験との絡みでしょうが、「収録語数の多いもの、語法に詳しいものが良い辞書」といった“一面の真理”のみに執着している人たちも多いようです。その結果、辞書出版社の編集部員や営業部員に向かって、「お宅の英和辞典 [和英辞典]には…という語[句・用例]が収録されていないから生徒には推薦できない」などと発言する教員が続出します。
 長年の辞書作りと辞書指導を通して思うことは、これらの発言はやはり“一面の真理”を突いているだけだということです。確かに、「収録語数の多い辞書、語法に詳しい辞書」は英語教師や大学受験合格を究極の学習目的と捉える生徒にとっては便利なものでしょう。しかし、英語教育の最大目標・究極目的は大学受験に合格することではないはずでし、そうであってはならないと思います。

英語科教員の辞書選択に思うこと。
 私が理解している範囲で言えば、英語科教員諸氏が生徒たちに英語辞書を購入させたり、推薦したりする場合の形態としては、次のようなものがあります。

1)辞書採用・推薦形態

1) 一括採用(私立校に比較的多い形態のようです)
2) 1点推薦(特定の辞書を1点だけ推薦する)
3) 2点推薦(特定の辞書を2点推薦する)
4) 3点以上推薦(3点以上の辞書を推薦する)
5) 各自に任せ、特には推薦しない
★「どの辞書も同じ」と考えている教員が少なくないようですが、そう考える背景には、多くの場合、辞書比較をしたことがなかったり、それをする力量がなかったりというのが実情でしょう。推薦形態の中で、5) の形態には異論を唱えたいと思います。普通の中高生が 辞書の良し悪しや特長などを理解しているはずはないからです。やはり、辞書指導を「生涯学習」の一環として捉え、適当な時期にきちんとした辞書指導をしておくべきだと思います。辞書指導は、どのような採用形態・推薦形態を採ろうとも、行われてしかるべきことでしょう。

 学校によっては、毎年、辞書出版社と辞書とを変えているところがあるようです(実際には、この形態を採用する学校は多いようです)。そして、その理由は次のようなもののようです。

2)毎年採用辞書を変える理由

1) 出版社との癒着を避けるため、またはその疑いを排除するため。
2) 良い辞書が出版されているのだから「機会均等」でいろいろな出版社の辞書を使わせたい。
3) 英語科教員全員の投票によって毎年「民主的」に決めるのが良い。
★ 1)の理由を挙げる英語科教員諸氏に会うことが少なくありませんが、自らの良心に恥じないのであれば、そのような危惧は無用だと思います。各人・各英語科が信念に基づいて行動することこそ、生徒たちにも良 い教育上の影響を与えるものと思います。2)については、健全な行為だと思いますが、「哲学」(理念)を持った英語科教員集団であれば、必ずしも「毎年」辞書を変えるということはしなくても良いのではないでしょうか。教育的観点、特に「辞書指導」の点から言えば、辞書を毎年変えるというのは避けたほうが良いようにも思えるのですが。3))の理由には説得力がありますが、うがった見方をすれば、各英語科の英語指導上の「哲学」(理念)を欠いていると言えなくもありません。「この辞書のこういう作り方、考え方に共鳴するし、この辞書の思想(理念)には我が校の英語科が目指す英語教育の理想と重なるところがあるから、この辞書を我が校は全校的に、毎年でも使う」というような考え方をすることも可能だと思います。もちろん、「進学校である我が校は語法に詳しい、受験に役立つ辞書であることを選択の第一要件とする」と考える考え方を否定するものではありません。         

 また、 学校や英語科によっては、辞書指導をまったく、あるいはほとんど行なっていないところもあるようです。その理由を察するに、次のような点が挙げられます。

3)辞書指導に不熱心な理由

1) 辞書指導をするための時間的余裕がない。
2) 辞書の効用、辞書指導は「生涯学習の一環」ということが理解できていない。
3) 教員自身が辞書指導を受けて来ておらず、辞書指導の意義が実感できていない。
4) 教員・英語科が、各社からの「辞書献本」に慣れ過ぎており、辞書は「貰い物の一つ」程度の認識を持ってしまっていて、「どの辞書が自分たちの日常の英語教育に最適であるか」などといった「辞書比較」をするようなこともない。

英語教育に「哲学」(理念)を
 
我が国のこれまでの英語教育に欠けていた大きなものの1つは「哲学」(理念)だと思います。不幸にも英語列強国の植民地となった諸国には、英語を学ぶための「哲学」(理念)など不要でした。英語を学び、話さなければ「生きていけない」のが、“力”に組み伏せられた諸国のその後の運命だったからです。しかし、歴史的に見て、我が国と英語との関わりは、そうした植民地諸国とは相当に異なったものです。日本人の英語教育[学習]にはもっと別の理由付けがあって良いと思います。具体的に言えば誰が、いつ、何のために、どのような英語を、どのように、どのくらい教えるかなどといった点です。そんなことは百も承知、二百も合点と言われるかも知れません。しかし、本当に「合点」がいっているのでしょうか。もしそうであるのなら、なぜ、我が国の英語教育に対して、かくも多くの怨嗟(えんさ)の声が上がるのでしょうか(「満足度の高い大学英語授業の創造」1、 2、 3、 4、  をご一読下さい)。英語の辞書は、生徒・学生を「英語好き」にする材料で満杯の書物です(最近では、そういう辞書が各社から出版されています)。そのことを実感できる教師に英語を教わる生徒・学生たちは幸福だと思います。私は今後とも、私の「哲学」(理念)に基づいて、満足度の高い辞書作りや大学授業の創造に邁進したいと思います。