20.ライフワークとしての辞書編集
はじめに
私が英語の辞書編集に関係するようになったのは、1972年(昭和47年)の春頃、当時明治学院大学教授をしておられた郡司(ぐんし)利男先生から、『小学館ランダムハウス英和大辞典』(全4巻;略称『小学館RHD』)の校正刷りを見てほしいと依頼された頃からであった。先生は当時同辞典編集委員会の委員をしておられ、私は法政大学専任講師になったばかりであった。同辞典は周知のごとく、アメリカの大型英語辞書The Random House Dictionary
of the English Language―The Unabridged Edition(略称RHD)を全訳し、多数の用例・解説等を加えたものであった。 それまで、RHD にもともと含まれていた少なからぬ誤謬を小学館版が引き継いでいることを郡司先生との雑談の中で時々話題に乗せていたことを思い出してくださって、小学館版の校正刷り、とりわけR、Sの項を最初から最後まで綿密に目を通し、誤植はもちろんのこと、記述の誤りや誤解を招くような訳語・用例・解説等を発見・訂正してほしいという依頼を下さったのであった。
その仕事振りが評価されたのだと思うが、それからの私は数社から編集作業への誘いを受け、今日に至っている。現在までに40数年、英語辞書と関わって来たわけであるから、私の歩んで来た道は、まさに表題のごとく「ライフワークとしての辞書編集」の道であったと言ってよいであろう。
辞書に興味を持った頃
あれから40年数年が経過した
早いもので、『小学館RHD』に関係してからもう40数年が経過した。郡司先生からその仕事ぶりを褒めていただいたのを励みに、『えい・べい語考現学―どこがどう違う?』(1977)と題した英米語比較辞典、『車の英語考現学―ドライバーの英語用例事典』(1977)と題した特殊辞典、 『アメリカ語法事典』(1983;ドイツ語からの分担翻訳)と題した語法事典、『小学館英和最新語辞典』(1981)、『英語なぞ遊び辞典』(郡司利男著;1982;発音記号と文化関連の記述を担当)、『小学館最新英語情報辞典』(1983;特にイギリス関連語および自動車関連語を執筆)、『学研カラーアンカー英語大事典』(1984;特にイギリス関連項目を執筆)、 『研究社リーダーズプラス』(1984;新語とイギリス関連語を執筆)、『米語対照・イギリス口語学習辞典』(1991)等々に原稿を寄せたり、翻訳・編集したりして辞書作りに協力した。
編集主幹として
辞書家として辛かったこと
辞書家としての私が全身全霊で『NA和英』の編纂作業に没頭していた1989〜90年の頃、歯槽膿漏気味で歯の治療を受けるために近所の歯科医に時たま通っていたのだが、歯茎が悪くなった個所がその数を増して行った。『SA英和』の編集作業に取り掛かった頃、1995年(平成7年)の初夏の頃だと思うが、とうとう私の歯茎は異常なほどガタガタになってしまった。毎日の睡眠は3時間前後であった。運動不足のために食べた物が消化されずに糖尿病になったことに原因があった。その結果、それが悪い歯茎に影響を及ぼし、ある夏、歯が何と13本も抜け落ちてしまった。正確に言えば、「抜け落ちた」のではなく、自分で「抜き取った」のだ。全ての歯がグラグラして気持ちが悪いため、1本1本自分の手で引っ張って抜いて行くのだ。残っていたわずか3本の歯を全て自分で抜き取ったのは、忘れもしない1999年(平成11年)の夏だった。結果的に、55歳の誕生日まであとひと月という時に、自前の歯は1本も残っていないという"惨憺(さんさん)たる有り様"であった(「燦々(さんさん)たる有り様」ではない!)。
そんな中、40年近く連れ添った、まさに糟糠(そうこう)の妻が末期膵臓癌と診断された。2008年(平成20年)5月2日のことであった。余命半年と宣告された妻は、結果的にはそれから1年4か月を生きた。我が子たちとハワイ旅行にも、あちこち国内旅行にも行った。私のような貧乏学者と結婚したために、40年近く、あまりいい思いをすることのなかった妻に、今は詫びる毎日だが、辞書編集主幹としての仕事は個人的感傷を許してくれない。
私は主義として、辞書の核になる部分は自分で執筆しなければ気が済まないのだが、それが具体的にはどういうことかを語ろうにも、もう紙面がない。機会を改めて、辞書家としての私の人生について詳しく書いておきたい。後に続く若い人たちにきっと役立つだろうと思うからである。
【注記】本記事は「英語教育」誌(2014年 3月号、大修館書店)に寄稿した文章です(一部の字句の表記を修正しました)。