20.ライフワークとしての辞書編集


はじめに
 私が英語の辞書編集に関係するようになったのは、1972年(昭和47年)の春頃、当時明治学院大学教授をしておられた郡司(ぐんし)利男先生から、『小学館ランダムハウス英和大辞典』(全4巻;略称『小学館RHD』)の校正刷りを見てほしいと依頼された頃からであった。先生は当時同辞典編集委員会の委員をしておられ、私は法政大学専任講師になったばかりであった。同辞典は周知のごとく、アメリカの大型英語辞書The Random House Dictionary of the English LanguageThe Unabridged Edition(略称RHD)を全訳し、多数の用例・解説等を加えたものであった。 それまで、RHD にもともと含まれていた少なからぬ誤謬を小学館版が引き継いでいることを郡司先生との雑談の中で時々話題に乗せていたことを思い出してくださって、小学館版の校正刷り、とりわけR、Sの項を最初から最後まで綿密に目を通し、誤植はもちろんのこと、記述の誤りや誤解を招くような訳語・用例・解説等を発見・訂正してほしいという依頼を下さったのであった。

 その仕事振りが評価されたのだと思うが、それからの私は数社から編集作業への誘いを受け、今日に至っている。現在までに40数年、英語辞書と関わって来たわけであるから、私の歩んで来た道は、まさに表題のごとく「ライフワークとしての辞書編集」の道であったと言ってよいであろう。


辞書に興味を持った頃

 私が英語の辞書に興味を持ったのは1957年(昭和32年)、中学1年生になった頃であった。兄の一人が、自分が所有していた旺文社発行の学習用英和辞典・和英辞典をセットで譲ってくれた。『エッセンシャル』の英和と和英であったと記憶する。当時の私にとって、異国の言語文化を垣間見せてくれる書物のようで、あちこち頁をめくりながら、ひとり興奮したのであった。残念ながら、両辞書は何度かの引っ越しで紛失してしまったが、私の心に「辞書は引いても読んでも面白い」という気持ちを持たせてくれたものだ。それから法政大学第二高等学校に入学し、英語部員として、3年連続で法政大学が主催する英語弁論大会に出場し毎年第1位を獲得した。1年次の時の副賞がThe Concise Oxford Dictionary of Current English(略称COD)で、2年次の時のそれがThe Pocket Oxford Dictionary of Current English(略称POD)であった。日本人高校生に歯が立つ辞書ではなかったが、英語の授業中はもちろん、自宅学習の際にも熱心に引いたり、あちこちを拾い読みしたりした。その頃、一番よく使った英和辞典は田中菊雄ほかが編集した『岩波英和辞典』(略称『岩波英和』)であった。

 その後、法政大学文学部英文学科に進学したが、入学した年の学業成績が学年で最優秀だったということで、2年次のガイダンスの時に、2年次生全員の前で、佐藤某(なにがし)という女子学生と共に優等生に選ばれ、副賞として『研究社英和大辞典』(略称『研究社大英和』)を贈られた。ちなみに、佐藤嬢は卒業後、研究社の辞書部に就職した。それも不思議な縁だと思う。
 その大辞典は英語辞書学(当時はそんな言葉はなかった)への私の道標となった。『岩波英和』も相変わらず頻繁に使用したが、『研究社大英和』のほうはほとんど毎日あちこちの頁をめくってはその既述の面白さ、奥深さに驚嘆した。
 学部時代、大学院時代はCODPODの親版である、世界最大の英語辞典The Oxford English Dictionary(略称OED,そのすぐの縮約版であるThe Shorter Oxford Dictionary(略称SOD)を初めとして、アメリカのWebster's Third New International Dictionary, Unabridged(略称WebsterV)ほか、主だった英語辞典、語法辞典、語源辞典を貧困にあえぎながら、入手し、日常的に頻繁に利用した。お陰で、それらの辞典の使用法をしっかりと身に付けることができた。また、それらの中にかなりの数の誤謬を見つけた。

あれから40年数年が経過した
 早いもので、『小学館RHD』に関係してからもう40数年が経過した。郡司先生からその仕事ぶりを褒めていただいたのを励みに、『えい・べい語考現学どこがどう違う?』(1977)と題した英米語比較辞典、『車の英語考現学ドライバーの英語用例事典』(1977)と題した特殊辞典、 『アメリカ語法事典』(1983;ドイツ語からの分担翻訳)と題した語法事典、『小学館英和最新語辞典』(1981)、『英語なぞ遊び辞典』(郡司利男著;1982;発音記号と文化関連の記述を担当)、『小学館最新英語情報辞典』(1983;特にイギリス関連語および自動車関連語を執筆)、『学研カラーアンカー英語大事典』(1984;特にイギリス関連項目を執筆) 『研究社リーダーズプラス』(1984;新語とイギリス関連語を執筆)『米語対照・イギリス口語学習辞典』(1991)等々に原稿を寄せたり、翻訳・編集したりして辞書作りに協力した。


編集主幹として

 私が編集主幹として本格的に英語の辞書編集に関わり出したのは、1991年(平成3年)、学習研究社刊の『ニューアンカー和英辞典』(略称『NA和英』)が最初である。その後、『アンカー英和辞典』(1972;略称『A英和』)およびその改訂版である『ニュー・アンカー英和辞典』(1988;略称『NA英和』)の編集主幹であった柴田徹士・大阪大学名誉教授が、「図書新聞」(1989/7/22)において拙著『現代英米語の諸相』(1989)を高く評価してくださり、併せて、『NA英和』編集主幹としての権限を全面的に私に移譲すると言ってくださった。その結果として生まれたのが『スーパー・アンカー英和辞典』(1997;略称『SA英和』)であった。
 この辞典を編集する際に出版元の学習研究社辞典編集部および原稿執筆者に強く願ったのは「他社の英和辞典の記述を模倣することのないように、最終的には全て自分の頭で考えて文字にすること。」ということであった。

辞書家として辛かったこと
 辞書家としての私が全身全霊で『NA和英』の編纂作業に没頭していた198990年の頃、歯槽膿漏気味で歯の治療を受けるために近所の歯科医に時たま通っていたのだが、歯茎が悪くなった個所がその数を増して行った。『SA英和』の編集作業に取り掛かった頃、1995年(平成7年)の初夏の頃だと思うが、とうとう私の歯茎は異常なほどガタガタになってしまった。毎日の睡眠は3時間前後であった。運動不足のために食べた物が消化されずに糖尿病になったことに原因があった。その結果、それが悪い歯茎に影響を及ぼし、ある夏、歯が何と13本も抜け落ちてしまった。正確に言えば、「抜け落ちた」のではなく、自分で「抜き取った」のだ。全ての歯がグラグラして気持ちが悪いため、11本自分の手で引っ張って抜いて行くのだ。残っていたわずか3本の歯を全て自分で抜き取ったのは、忘れもしない1999年(平成11年)の夏だった。結果的に、55歳の誕生日まであとひと月という時に、自前の歯は1本も残っていないという"惨憺(さんさん)たる有り様"であった(「燦々(さんさん)たる有り様」ではない!)。

 そんな中、40年近く連れ添った、まさに糟糠(そうこう)の妻が末期膵臓癌と診断された。2008年(平成20年)52日のことであった。余命半年と宣告された妻は、結果的にはそれから14か月を生きた。我が子たちとハワイ旅行にも、あちこち国内旅行にも行った。私のような貧乏学者と結婚したために、40年近く、あまりいい思いをすることのなかった妻に、今は詫びる毎日だが、辞書編集主幹としての仕事は個人的感傷を許してくれない。

 私は主義として、辞書の核になる部分は自分で執筆しなければ気が済まないのだが、それが具体的にはどういうことかを語ろうにも、もう紙面がない。機会を改めて、辞書家としての私の人生について詳しく書いておきたい。後に続く若い人たちにきっと役立つだろうと思うからである。


【注記】本記事は「英語教育」誌(2014年 3月号、大修館書店)に寄稿した文章です(一部の字句の表記を修正しました)。