18. 私が英和辞典編纂に当たって
          キリスト教にこだわる理由


1.日常的な日本語になっている仏教由来の語はきわめて数多い。以下に、それらを列挙してみよう。

「阿鼻叫喚(あびきょかん)」、
「行脚(あんぎゃ)」、
「一期一会(いちごいちえ)」、
「一蓮托生(いちれんたくしょう)」、
「因果(いんが)」、
「因縁(いんねん)」、

「戒名(かいみょう)・法名(ほうみょう)・法号(ほうごう)」、
「戒律(かいりつ)」、
「我執(がしゅう)」、
「合掌(がっしょう)」、
「帰依(きえ)」、
「喜捨(きしゃ)」、
「逆縁(ぎゃくえん)」、
「行(ぎょう)」、
「空(くう)」、
「功徳(くどく)」、
「供養(くよう)」、
「解脱(げだつ)、
「結縁(けちえん)」、
「血脈(けちみゃく)」、
「業(ごう)」、
「光明(こうみょう)」、
「極楽(ごくらく)」、
「坐禅(ざぜん)」、
「三昧(さんまい)」、
「色即是空(しきそくぜくう)」、
「四苦八苦(しくはっく)」、
「地獄(じごく)」、
「慈悲(じひ)」、

「釈迦(しゃか)」、

「娑婆(しゃば)」、
「修行(しゅぎょう)」、
「衆生(しゅじょう)」、
「出家(しゅっけ)」、
「精進(しょうじん)」、
「説教(せっきょう)」、
「殺生(せっしょう)」、
「刹那(せつな)」、
「袖擦り合うも他生の縁」、
「題目(だいもく)」、
「他力本願(たりきほんがん)」、
「畜生(ちくしょう)」、
「奈落(ならく)」、
「涅槃(ねはん)」、
「念仏(ねんぶつ)」、
「破門(はもん)」、
「般若(はんにゃ)」、
「不如意(ふにょい)」、
「方便(ほうべん)」、
「菩薩(ぼさつ)」、
「仏(ほとけ)」、

「仏の顔も三度」
「煩悩(ぼんのう)」、
「三日坊主」、
「冥利(みょうり)」、
「無常(むじょう)」

など、多くの語を挙げることができる。3番目の語「一期一会」は、周知のとおり、千利休の弟子であった山上宗二(1544-1590)が残した言葉だが、禅の精神に基づいて完成した茶道の大切な考えとして、400年以上も経過した現代でも大事にされている語だ。この語を使用する上で、大切なことは、「一世一度の会」(「一期」は「一生涯」)として、茶室での人と人との出会いの大切さを言っているという点である。国語辞典にはその点が書いてある必要がある。

 また、7番目の語として挙げた「戒名(かいみょう)・法名(ほうみょう)・法号(ほうごう)」の場合も、今日的ではあるが、「戒名」は真言宗、浄土宗、天台宗、禅宗での呼び名であり、「法名」は浄土真宗、「法号」は日蓮宗でそれぞれ用いられる。だが、残念ながら、その使い分けを明記している国語辞典(ただし、机上版)は、私の手元には1点もない。やはり、中型国語辞典以上の物にはそのこと(=区別)を書いておいてほしい。日常的には、宗派に関係なく、故人に関連して「戒名」と言う人が多いからである。

 また、さらに日常的な語なら、次のようなものを挙げることができる。

「愛嬌(あいきょう)」、
「挨拶(あいさつ)」、
「悪魔(あくま)」、
「天邪鬼(あまのじゃく)」、
「ありがとう」、

「安心(あんしん)」、
「意識(いしき)」、

「以心伝心(いしんでんしん)」、
「一大事(いちだいじ)」、
「有頂天(うちょうてん)」、
「会釈(えしゃく)」、
「往生(おうじょう)」、
「大袈裟(おおげさ)」、
「和尚(おしょう)」、

「億劫(おっくう)」、
「親玉(おやだま)」、
「改心(かいしん)、」
「覚悟(かくご)」、
「我慢(がまん)」、
「観察(かんさつ)」、
「堪忍(かんにん)」、
「勘弁(かんべん)」、
「機嫌(きげん)」、
「行儀(ぎょうぎ)」、
「金言(きんげん)」、
「愚痴(ぐち)」、
「外道(げどう)」、
「下品(げひん)、上品(じょうひん)」、
「玄関(げんかん)」、
「降伏(こうふく)」、
「乞食(こじき)」、
「言語道断(ごんごどうだん)」、
「金輪際(こんりんざい)」、
「差別(さべつ)」、
「失念(しつねん)」、
「邪魔(じゃま)」、
「自由自在(じゆうじざい)」 

 最後の「自由自在」など、受験参考書の名前(の一部に)さえなっていて、たとえば、『中学自由自在数学』、『中学自由自在英語』などという参考書を刊行している出版社さえある。「自由」も「自在」も悟りの境地を言う語である。

 さらに挙げ続ければ、

「殊勝(しゅしょう)」、
「出世(しゅっせ)」、

「正直(しょうじき)」、

「成就(じょうじゅ)、
「正念場(しょうねんば)」、
「成仏(じょうぶつ)」、
「食堂(しょくどう)」、
「初心(しょしん)」、
「所信(しょしん)」、
「所詮(しょせん)」、
「所得(しょとく)」、
「心外(しんがい)」、
「心機一転(しんきいってん)」、
「心境(しんきょう)」、
「人道(じんどう)」、
「親友(しんゆう)」、
「睡魔(すいま)」、
「ずぼら」、
「世間(せけん)」、
「接待(せったい)」、
「絶対(ぜったい)」、
「絶妙(ぜつみょう)」、
「専修(せんしゅう)」、
「選択(せんたく)」、
「相応(そうおう)」、
「相思相愛(そうしそうあい)」、
「相続(そうぞく)」、
「相対(そうたい)」、
「退屈(たいくつ)」、
「醍醐味(だいごみ)」、
「大衆(たいしゅう)」、
「大丈夫(だいじょうぶ)」、
「立往生(たちおうじょう)」、
「達人(たつじん)」、
「堕落(だらく)」、
「旦那(だんな)」、
「断末魔(だんまつま)」、
「知事(ちじ)」、
「馳走(ちそう)」
「中道(ちゅうどう)」、
「聴衆(ちょうしゅう)」、
「長老(ちょうろう)」、
「珍重(ちんちょう)」、
「通(つう)」、
「通達(つうたつ)」、
「提唱(ていしょう)」、
「覿面(てきめん)」、
「投機(とうき)」、

「道具(どうぐ)」、
「道場(どうじょう)」、
「道楽(どうらく)」、
「取り越し苦労」、
「頓着(とんちゃく)」、
「貪欲(どんよく)」、
「難行苦行(なんぎょうくぎょう)」、
「日常茶飯(にちじょうさはん)」、
「人間(にんげん)」、
「暖簾(のれん)」、
「馬鹿(ばか)」、
「発露(はつろ)」、
「火の車」、
「秘密(ひみつ)」、
「微妙(びみょう)」、
「平等(びょうどう)」、
「不覚(ふかく)」、
「不思議(ふしぎ)」、
「不審(ふしん)」、
「普請(ふしん)」、
「付属(ふぞく)」、
「不退転(ふたいてん)」、
「蒲団(ふとん)」、
「分別(ふんべつ)」、
「発起(ほっき)」、
「凡夫(ぼんぷ)」、
「微塵(みじん)」、
「未来(みらい)」、
「無縁(むえん)」、
「無我(むが)」、
「無学(むがく)」、
「無惨(むざん)」、
「無尽蔵(むじんぞう)」、
「無明(むみょう)」、

「迷惑(めいわく)」、
「滅法(めっぽう)」、
「面目(めんぼく・めんもく)」、
「夜叉(やしゃ)」、

「融通(ゆうずう)」、
「利益(りえき)」、
「律儀(りちぎ)」、
「悪口(わるくち)」

等々を挙げることができる。そのほか、私が知らないだけで、仏教由来の語は多いであろう。また、我が国では“宗教”としては、普通は、認識されないが、6世紀以降、儒教を通じて日本語に定着したものも多い。その五常である、「仁(=人を思いやること)、「義(=利欲に囚われず、為すべきことを為すこと)」、「礼(=仁を具体的な行動として表したもの)」、「智(=学問に励むこと)」、「信(=自らの言明をたがえないこと)」という徳性はたいていの日本人が知っているであろう。

2.以上のように、宗教としての仏教が我が国の日本語に与えた影響や、日本人の思想に及ぼした影響は計り知れない。日常的に、仏教に無縁の日本語だけで生活するということは不可能である。このような、仏教に影響された日本語をその元の意味を理解し、その上でその現代的な意味・用法に習熟できたなら、我々はそうした日本語をいっそう楽しく使うことができ、我々の意思疎通もより円滑に進められることであろう(もちろん、語源など全く知らずに現代日本語としてのそうした語を使用しているのが我々の日常だが)。逆に、このような仏教に影響された言葉の真の意味を全く理解せずに、外国人が日本人・日本語・日本文化などの精神を深く理解しようというのも“無理”である。 

 同じことが英語にも言える。英語の形成に最も大きな影響を与えた宗教はキリスト教(およびユダヤ教)である。英国の批評家で社会思想家のJohn Ruskin (1819-1900)は、Our Fathers Have Told Us において、「聖書こそ、全欧州の思想を生かすもの」、「聖書文学を欠いたら、欧州の知性はどうなったであろうか」と言った。また、F. G. Lankard:The Bible and the Life and Ideals of the English -Speaking People (1936)には、アメリカ合衆国第6代大統領であったJohn Q. Adams (1767-1848)が、「世界の注目を引き付けるに値する、最初にして唯一の書物は聖書である。」と言ったと書かれている。さらに、かのAbraham Lincoln(1809−65;アメリカ合衆国第16代大統領)は、10歳になるまでに聖書を3度精読したと伝えられる。「理性が納得できる聖書の部分は全て受け入れよ。そして残りは信仰に預けよ。そうすれば、あなたは正しい人間として生き、正しい人間として死ねるだろう。」と確信に満ちた言葉を残したのもリンカーンだ。それほどの偉大な力を聖書は持っていたし、今もその頃ほどではないにせよ、持っているのである。アメリカ合衆国大統領の誰もが就任の際に、聖書に手を置いて、その職責を全うすることを誓う姿は日本人にも馴染みのあるものであろう。つまり、キリスト教(およびユダヤ教)を全く理解せずに日本人がキリスト教(およびユダヤ教)圏の英語および英語で書かれたもの(例:文学作品)を本当に、深く、理解することはできないのである。そのあたりのことは


※櫛田磐・櫛田眞澄編『映画と聖書―聖書がわかれば映画がもっと面白くなる』(教文館、1999)、
※木下和好著『聖書がわかれば英語がわかる!』(ダイヤモンド社、2001)
※鹿嶋春平太著『聖書がわかればアメリカが読める』(PHP研究所、2001)、
※石井希尚著『聖書がわかれば世界が読める』(岳陽舎、2002


などといった書籍が出版されていることからも伺える。もちろん、日本人英語学習者の初級者に、そういった英語の宗教的背景を事細かく教える必要はない(ただし、教えておいたほうが良いと思われる語も少なくない。例:loveと「愛」の違い、friendと「友(だち)」の違い、neighborと「隣人」の違い)。だが、後期中級者から上級者、とりわけ
英語教師や英語を日常的に使用する職業についている人々(たとえば、通訳者・翻訳家、ビジネスピープル、外交官等々)は、宗教的背景を持つ、主だった英単語の“含み”をきちんと理解しておく必要がある。1例だけ、実例を挙げる。

 某英和中辞典には次のような英文用例と訳文とが挙がっている。

  He preached against sin. 彼は罪悪を犯してはならないと説教した

だが、残念ながら、これはこの項の原稿を書いた人あるいは最終的に責任を負う立場の人(編集主幹)がキリスト教でいう“sin”を理解していないことから起きた“誤訳”である。
  この日本語では、日本人なら、「悪いことはしてはならないと教えた」のだと思うであろう。しかし、英語の“sin”は「してはならないことをすること」だけでなく、「せよと命じられたことをしないこと」にも及ぶのであるから、He preached against sin.が言っているのは、「罪悪を犯してはならないと説教した」のみならず、「為すべきことを為さないでいてはならない」とも説教したのである。したがって、訳文もその両者の意味を表せるものでなければならない。日本の英語辞書に関わる人でさえ、このように、“sin”を日本的に捉えていることは否めないのである。一般の日本人英語学習者・教師などにこの理解が欠けているのは言わずもがななことであろう。

後期中級者以上の英語学習者、英語教師、その他、英語を日常的に使用する人々が、キリスト教的に言う“sin”をきちんと理解していれば、上例のような訳文にはなり得ないということに気づけるし、またその理解のもとに英語を使用することができるのである。だから、私は英語の背景を成すキリスト教(やユダヤ教)のような一神教に深い敬意を払った英和辞典を編纂しているわけである。「英語読みの英語知らず」にならないために…。 

 英語母語話者あるいは英語を第二言語・外国語として使用する人々で、キリスト教徒(あるいはユダヤ教徒)でありながら、宗教とは無縁の生活を送っている人たちは数多い。また、キリスト教(あるいはユダヤ教)以外の宗教を信じている人たちもいれば、無宗教の人たちも大勢いる。だが、宗教に無関心の人々が使っている英語にも間違いなく、そうしたキリスト教(あるいはユダヤ教)の強い影響が及んでいる。上記の「He preached against sin. 彼は罪悪を犯してはならないと説教した」の理解の仕方の日英差はその1例に過ぎない。

 ちなみに、そういうことが理解できないままで日本語になってしまった英単語は数多い。その1例が“accountability”を「説明責任」と訳してしまったことだ。詳細は『スーパー・アンカー英和辞典』、『アンカーコズミカ英和辞典』の同項の解説に譲るが、この語も極めてキリスト教的な語の1つである。 

3.繰り返すが、初級英語学習者、初期中級英語学習者を利用者対象とした英和辞典に、宗教的背景の詳細は、一部の語を除いて、不要である。だが、中期中級英語学習者以上の者が対象の英和辞典に、宗教的影響を受けた、主だった単語の暗示的意味(宗教的・文化的意味)をきちんと説明しておくことは、深い英語理解に繋がるものだと私は信じて疑わない。そう信じるが故に、私は、私が編纂に関わる英和辞典でキリスト教に由来する語句にこだわるのである。仏作って魂入れず」としか形容できないような英語教育は不毛である…。