8.辞書作りを支える人々
                                                                                                 
                    



  かつての辞書の場合、栄誉と言えばその多くは監修者(少なからぬ場合、実質の伴わない名ばかりの“有名教授”)に与えられる傾向があった。私は辞書に関係した当初から、そのような傾向に違和感をもっていて、自分が監修者になった場合には身を粉にしても“実”のある責任者になると決意し、そう努めてきた。また user-friendly な辞書作りを実現するため、愛読者カードにも目を通した。『スーパー・アンカー英和』 の場合、出版社あての愛読者カードで改良の具体的アイディアなどをお寄せくださった約600名に、へたな毛筆書きだが、直接、礼状をお出しした。それが、苦労の多かった編集部と出版社への私の感謝の気持ちであり、両者の発展につながると信じたからである。
  しかし、辞書作りの本当の功労者は辞典編集部諸氏である。この人々は知見と経験、情熱と責任感の塊である。私自身も用例、解説、注記などを大量に執筆し、初稿、再校、三校と、ゲラの全ページに朱を入れるが、私の書き過ぎや誤解を徹底的に検討し、さらに朱を入れ、辞書全体のバランスを整えてくれるのはそうした人々だ。企画、執筆規約の作成、執筆依頼、編集、校正など、全工程を通じて最大の功労者と呼べるのが編集部スタッフなのである。一般の利用者は美しく仕上がった辞書を利用するだけで、普通は裏方に徹する人々に思いをはせることはないであろう。
  もちろん、いくら編集部が有能でも、それだけで辞書が出来上がるわけではない。編集委員、執筆者、その他多数の協力者がなくてはならない。それらの人々の人選という、きわめて大事な仕事の責任は、やはり編集部スタッフを中心とした辞書出版社にある。人選を間違えば,辞書の完成はおぼつかなくなるし、辞書出版社の存亡にさえつながりかねない。執筆依頼自体はさほど困難なことではない。本当にやっかいなのは、後日、人選が不適切であったと気づいてから、当人に断りを入れることである。たいてい、断った相手からは恨まれる。しかし粗悪な原稿をもらって粗悪な辞書を作るわけにはいかないから、それも編集部の仕事の一部とあきらめて、悪役に回る。

最多忙期の私の日常
  私が 『スーパー・アンカー英和』 の編集作業に 忙殺された頃のひと夏を思い起こしてみる。便宜的に夕刻から始める。午後 6〜7時、夕食。多少テレビニュースを見たり、新聞を読んだりするが、7時過ぎには机に向ってゲラ (校正刷り) に朱を入れる。10時入浴。11時まで多少のくつろぎを得る。11時過ぎから翌朝4時過ぎまでゲラ読み。その後、外がやや明るくなってから 30〜40分、愛犬と散歩 (後日注記:今は亡き HAPPYのこと;ここを参照)。5時半から7時半ごろまでゲラ読み。続いて、軽い朝食。多少テレビニュースを見たり、朝刊を読んだりしてから 8時半か9時に就寝、正午頃に起床。洗面を済ませてから再びゲラ読み。これが午後6時ごろまで続く。一日(実働約15〜16時間)のこのパターンが約40日間続く。日曜日に多少の寝だめをする。冬休みは短いが、ほぼ同じことの繰り返し。
  ある年の夏、歯が13本も抜け落ちた。疲労が最初に悪影響を及ぼすのが歯であると聞いたことがあったが、それは本当であった。ショックであった。恐怖でもあった。何度、辞書作りを止めようと思ったことだろう。そのたびに、「後に続く若い人たちに、私が歩いた凸凹だらけの英語道(みち)を歩かせてはならない」、「後に続く若い人たちに、私が使ったような不十分な英語辞書を使わせてはならない」と思い、(“歯を食いしばって”と言いたいところだが、食いしばる歯がなかったので)自らを激しく奮い立たせながら、机に向かった。疲労困憊の日々が続いた【下記注2参照】。太陽が黄色く見えた。電車通勤の途中、車内で何度か気を失って倒れたこともある。通勤時間を短縮させるために、クルマ通勤を始めたが、睡魔に襲われて、数度の交通事故を起こした。他人様に大怪我をさせ、入院させたこともあった。
  運動不足に起因する糖尿病にも悩まされた。糖分のバランスが崩れるたびに全身に震えがきた。血圧は175、6あるのが普通であった。ひどい時には200を超えた。右腕が使い過ぎで動かなくなることも、その激痛から七転八倒することも何度かあった。そのたびに妻が徹夜で介抱してくれた。医師の世話になることもあった。140枚入りのサロンパスが1週間ももたなかった。15ml入りの目薬は4、5日でなくなった。疲れで目が開かなくなることも頻繁であった。そのたびに、サロンパスをほそ切りにして、それを目の周りに貼り付けて、目に刺激を与えた。刺激が強すぎて目から涙が溢れ出た。メンソレータムの塗擦も有効であった。眼底疲労が原因で嘔吐することはごく日常的であった。
  『スーパー・アンカー英和』の改訂に取り掛かった頃だと思うが、 1999年(平成11年)8月21日の日記には、残っていた3本の歯を失ったこと、「情けないが如何ともしがたい」という嘆息などが書かれている。55歳の誕生日を翌月に控えていた。「身体髪膚(しんたいはっぷ)これを父母に受く。敢えて毀傷(きしょう)せざるは、孝の始めなり」という『孝経』の言葉が思い出された。それを打ち消してくれたのが、同じく『孝経』の、「身を立て道を行ない、名を後世に揚(あ)げて、以(もつ)て父母を顕(あらわ)すは孝の終わりなり」という言葉であった。
  私の場合、家族、とりわけ妻の全面的な協力と理解がなければ、辞書作りは不可能であった。私にとって、妻と家族とは私のエネルギーと勇気の源であった。感謝あるのみである。今後とも体力と根気の続く限り、命の続く限り、より良い辞書作りに励む決意である。少々気障な言い方に響くかも知れないが、ゆっくり休むのは「あの世」とやらへ行った時にしようと思う。この世の限られた時間の中で、しかも凡人の私に出来ることと言えば、あまりにも僅少であるから、ゆっくり眠ってなどいられない。いずれ無に帰す身である。立志不高、則其學皆常人之事 志し立つること高からざれば、 すなわち其の学皆常人のことのみ 私の好きな言葉である。

【注1】本稿は、小著 『英語の辞書作りと私』(学習研究社刊;非売品)の第31章の増補版です;また、本ホームページのINDEX PAGE に掲載した私を描いたイラスト(下)は、もともと小著に添えられたものです。イラストレーターの宍戸利孝氏に感謝します。
【注2】後年、西原克成著『歯はヒトの魂である』(青灯社)というタイトルの本の存在を知った。名歯科師の手に成る一書であるが、その書名を初めて見た時、私は“ドキッ”とした。“辞書作り”に明け暮れるうちに、私の“魂”である“歯”は1本、また1本(時には、10本以上)と抜け落ち、辞書に吸い取られ、消えて行っていたからである。
       


追記:
 2002年度[平成14年度]に慶應義塾大学法学部で英語を教えた学生の1人、下田侑平君が留学先の中国天津市南開大学(2004年[平成16年]4月現在)から、インターネット日記(「外国人の疑問にこたえられるか?」;4月1日記)を書き、その中で、私が関係した辞書と、私の辞書作りに言及してくれています。同君はその中で、

話を山岸先生に戻すが、先生はスーパー・アンカーという英和・和英辞典を作っている方で、その信念、辞書に対する思いといったら並々ならぬものがある。辞書に携わるということは、英語だけでなく日本語の大切さを知っていなければならないし、日本の文化、日本人の思考などに十分すぎるほど知識がなければならないということを知った。山岸先生のような様々な方面に詳しく、日本人の英語能力向上に役立つための辞書作りに一生をかけている人を見て、英和・和英辞書の明るい未来を感じた。(このスーパー・アンカーという辞書は、他の辞書と格が違うという感じだ)

と書いてくれています。偶然に知った文章でしたが、辞書家冥利に尽きる嬉しい一文でした。同君の期待に背かないよう、これからもより良い辞書を求めて、命の火を燃やす決意です。下田君、ありがとう。  


長い辞書道(じしょみち)を歩いて来たような気がする…